店日記
3月15日
2018年03月15日
ぼくは常識が好きだ。
常識を共有していれば、スムーズに生活ができる。と思うのだが、常識などというものは、ローカルというか一人の人間の中でもばらつきながら組み合わさっているもので、ごりごりに信奉するに足るものではない。むしろ、ある程度の希望として、スムーズにしたいところはなっていたほうがいい、あまりにアナーキーなのは気持ちが落ちつかない。というのは、頭でわかっているのだが、つい常識を振りかざしたくなってしまう。それで、振りかざしているうちに、自分を常識で固めねば気がすまないというはねかえりにあう。自分をあるのかないのかよくわからない「常識」に押し込めようと常に意識しているようなことになる。これは苦しい。
まあここまではいい。いいというか、それほどおもしろい考えではない。そこで、なんというか、たとえば、話がずれているように感じるかもしれないが、「儲かってない」ということを、肯定しようとしてみるとする。「儲かってない」ということを、肯定すること自体は、「儲かってない」を常に悪いものとしてとらえつづけるよりは幾分かいいことだと思う。ただ、「儲かってない」をおもしろいこととして、まあ理屈をつけたとして、それがそのときの言葉でいってみたということだけで終わり、すぐに忘れるようなことになりすぎる傾向にあるのだ。
別にそれでもいいといえばいいのだけど、それが一時のことに終わって「身につかない」のには何か問題があるはずだ。
ものごとについて、「わかる」ということがある。それはうれしいし、いいことのように思う。しかし、「わかった」ということの命は短いというか、「わかった」ところで満足し、「わかった」ところからしか言葉を発せられないとしたら、おそらくその言葉はつまらないし、一時のことに終わる可能性が高い。「わからない」という状態があり、そこから「わかる」というポイントに出る。言葉を発するなら、むしろその手前のほうの「わからない」という状態のほうにスリルがある。つまらない比喩だが、宇宙人のようにものごとを見るように、そのことについて語る、それは、言葉の運び自体がわかろうとしている「過程」を示すという意味でもスリルがある。
ところで、いまもっといいたいのは、「わかる」に至ったその先のことだ。ものを見ていて、あ、わかったと思う。わかった時点で見るのをやめれば、まあわかったというだけのことだ。それでもなおかつ、しつこく見ている。そうすると、何かよくわからない「わかる」に至ることが多い。「よくわからない「わかる」」。たぶん、最初の「わかる」というのは、その人がわかるわかり方の癖というか効率のいい「わかる」であり、普通、省力的にその「わかる」で事たれりとしているような力の使い方だ。そのような省力的な「わかる」も役に立つのだが、たぶん、わかっても一時のことに終わっているのは、その慣性だけで過ぎ去っているからだと思われる。見るのをやめず、その先の「よくわからない「わかる」」に至ったとき、一時のことではない、ある感触が感じられているはずだ。
常識を共有していれば、スムーズに生活ができる。と思うのだが、常識などというものは、ローカルというか一人の人間の中でもばらつきながら組み合わさっているもので、ごりごりに信奉するに足るものではない。むしろ、ある程度の希望として、スムーズにしたいところはなっていたほうがいい、あまりにアナーキーなのは気持ちが落ちつかない。というのは、頭でわかっているのだが、つい常識を振りかざしたくなってしまう。それで、振りかざしているうちに、自分を常識で固めねば気がすまないというはねかえりにあう。自分をあるのかないのかよくわからない「常識」に押し込めようと常に意識しているようなことになる。これは苦しい。
まあここまではいい。いいというか、それほどおもしろい考えではない。そこで、なんというか、たとえば、話がずれているように感じるかもしれないが、「儲かってない」ということを、肯定しようとしてみるとする。「儲かってない」ということを、肯定すること自体は、「儲かってない」を常に悪いものとしてとらえつづけるよりは幾分かいいことだと思う。ただ、「儲かってない」をおもしろいこととして、まあ理屈をつけたとして、それがそのときの言葉でいってみたということだけで終わり、すぐに忘れるようなことになりすぎる傾向にあるのだ。
別にそれでもいいといえばいいのだけど、それが一時のことに終わって「身につかない」のには何か問題があるはずだ。
ものごとについて、「わかる」ということがある。それはうれしいし、いいことのように思う。しかし、「わかった」ということの命は短いというか、「わかった」ところで満足し、「わかった」ところからしか言葉を発せられないとしたら、おそらくその言葉はつまらないし、一時のことに終わる可能性が高い。「わからない」という状態があり、そこから「わかる」というポイントに出る。言葉を発するなら、むしろその手前のほうの「わからない」という状態のほうにスリルがある。つまらない比喩だが、宇宙人のようにものごとを見るように、そのことについて語る、それは、言葉の運び自体がわかろうとしている「過程」を示すという意味でもスリルがある。
ところで、いまもっといいたいのは、「わかる」に至ったその先のことだ。ものを見ていて、あ、わかったと思う。わかった時点で見るのをやめれば、まあわかったというだけのことだ。それでもなおかつ、しつこく見ている。そうすると、何かよくわからない「わかる」に至ることが多い。「よくわからない「わかる」」。たぶん、最初の「わかる」というのは、その人がわかるわかり方の癖というか効率のいい「わかる」であり、普通、省力的にその「わかる」で事たれりとしているような力の使い方だ。そのような省力的な「わかる」も役に立つのだが、たぶん、わかっても一時のことに終わっているのは、その慣性だけで過ぎ去っているからだと思われる。見るのをやめず、その先の「よくわからない「わかる」」に至ったとき、一時のことではない、ある感触が感じられているはずだ。